波動関数の収縮を、やめてみる
量子力学では、観測する前の状態を波動関数という数式で表します。この波動関数には、同時に複数の結果が重なった形で含まれており、一つだけが決まっているわけではありません。従来の考え方では、実際に観測を行う瞬間にこの波動関数が一つの結果へと縮んでしまう、と説明されていました。つまり、重なっていた可能性はすぐに消えて、一つだけが現実になるという仮定です。
しかし1957年、当時無名だったヒュー・エヴェレットという大学院生が博士論文の中で、この「収縮」という仮定を丸ごと捨てました。指導教官はジョン・ホイーラーでした。収縮を使わなければ、重なり合った状態はそのまま素直に進み続けます。すると観測する装置も、それを見る人間も、その重なりの中に取り込まれていきます。エヴェレットは、このとき観測者自身も複数の可能性に分かれた状態になることに気づきました。つまり、一方の結果を見た自分ともう一方の結果を見た自分に分岐し、どちらの枝(分岐)も同等に実在すると考えることができるわけです。
エヴェレットはこの発想を相対状態の定式化と呼びました。収縮という特別な操作を導入せず、量子力学の方程式だけで全てを記述しようとした点が核心でした。その結果として現れた世界の分岐は、後にブライス・ドウィットによって多世界解釈という名前で広く知られることになります。収縮という特別な操作を持ち込まなくても、枝が分かれるという描像は方程式のほうから出てくる、というのがこの立場の主張になります。
波動関数の収縮を捨てたことが、多世界解釈の出発点でした。エヴェレットの単純だが根本的な選択は、後世の物理学者や哲学者に大きな影響を与え続けています。
世界は「分裂」するのか
よく「観測のたびに世界が分裂する」と紹介されますが、これはあくまでイメージしやすい言い方であり、実際に起きていることはそれほど劇的ではありません。量子系とそれを測定する装置、あるいは周囲の環境が相互に結びついてしまう現象を「もつれ合い」と呼びます。このもつれ合いが進むと、かつて重なり合っていた複数の状態(枝)が互いに影響し合わなくなる—すなわち情報が分離される過程が起こります。
この「影響し合わなくなる」過程はデコヒーレンスと呼ばれます。たとえば、部屋で二つの会話が同時に行われているとき、最初はお互いの言葉が混ざり合って聞こえるかもしれません。しかし人が増えて会話相手が多くなるほど、各グループは次第に独立した音だけを発し始め、他方の声はほとんど届かなくなります。量子系でも同様に、測定装置や環境という多数の要素と結びつくことで、元々重なっていた状態が急速に分離されます。この分離が速くなるほど、もとの相互作用はほぼ消えてしまいます。
枝が分かれた後は、どちらの枝からももう一方を見ることができなくなります。したがって観測者が実際に体験するのは、自分がいる枝だけです。世界全体が真っ二つに割れて別々に存在しているわけではなく、相互に干渉しなくなった状態が現れたと考える方が、デコヒーレンスの実態に近い表現と言えます。こうした過程を通じて、多数の可能性は同時に残りながらも、私たちには一つだけが「見えている」ように感じられるのです。
理解されるまでの、長い空白
エヴェレットが多世界的な考え方を初めて論文にまとめたとき、当時の物理学界ではほとんど受け入れられませんでした。指導教官であったホイーラーも、この新しいアイデアを権威とされたニールス・ボーアに伝えようとしましたが、賛同は得られず、エヴェレットの主張は学術的な議論から遠ざかる結果となりました。
博士号取得後、エヴェレットは大学教員として残ることなく、政府機関や民間企業に所属する研究所で作戦研究(オペレーションズ・リサーチ)に従事しました。この分野では最適化手法として彼の名が冠されたものが現在でも使われており、物理学からは離れたものの、一線の研究者として高い評価を受け続けました。エヴェレットは1982年に51歳で亡くなるまで、この道で成果を上げていたとされています。
しかしながら、彼が提唱した多世界解釈が広く知られるようになったのは1970年代です。このときブライス・ドウィットが『多世界解釈』という名称を付けて紹介し始めました。つまり、この考え方が物理学の議論に再び登場したのはエヴェレットが現役を退いた後のことであり、提案から一般的な認知までには長い時間的空白がありました。
考えが世に出てから正当に扱われるまでのあいだ、彼は別の分野で仕事を続けていました。追いつかなかったのは、彼のほうではありません。
いちばんの弱点は、確率のほう
量子力学では、実験で得られる結果の出る確率を数値で予測します。たとえばこの状態になる確率は何割かという形で示され、その予測は繰り返し行われる実験と非常に良く合致してきました。この数値が意味するものは、ある一つの出来事が起こる可能性を表すことです。
しかし多世界解釈では、分岐した先の枝がどれも同じように実在すると考えます。その場合、各枝に自分がいると考えると「何割」という確率はどこから出てくるのかがすぐには見えてきません。どの枝にも自分がいるのなら、そもそも確率とは何を指しているのか、という問いが残るからです。この難しさが多世界解釈の最大の弱点とされることがあります。確率をどう割り当てるかについては多くの提案が出されてきましたが、合意には至っていません。
したがって多世界解釈は真面目な選択肢の一つとして扱われていますが、物理学者の多数派というわけではありません。「パラレルワールドは物理学が認めている」と言い切るのは、現状より一歩踏み込みすぎになります。
「選ばなかった自分」は、どこにいるのか
多世界解釈では、枝分かれは量子の出来事に関するものです。「あのとき別の道を選んでいたら」という日常の考え方が、そのまま世界全体の枝分かれに対応するとこの理論は言っていません。また、人間の決断が量子的な揺らぎにどこまで影響されるかはまだ解明されておらず、したがって日常の選択と世界の分岐を結びつける話は物理学の範囲を超えています。
それでも、選ばなかった自分がどこかにいるという言い方は、一度聞くとしばらく残ります。起きたことの意味を置き直す言い回しは、占いがずっと担ってきたものでもあります。同じ一日でも、どんな枠で受け取るかによって、後から思い出す形は変わってきます。
線はここで引けます。量子の世界の枝分かれは物理学の話ですが、その先——選ばなかった自分がどこにいるのか、選ばなかったことをどう抱えるのか——は、物理学が答えを持っている場所ではありません。それを承知したうえで、それでも、どこかにいるかもしれない自分のことを思う。そこから先は、物理学ではなくあなたの領分です。